こんにちは。
今日は、「共感と理解」の違いについて解説していこうと思います。
普段から何気なく使っている言葉。果たしてその言葉の正ししい意味を分かった上で話すことができているのでしょうか。
共感するとはどういうことか
まずは共感について書いていきたいのですが、その前に一つ詳しく書いておきたいことがあります。
それは「共鳴」です。
共鳴とは、相手の緊張が伝わってきたり、微笑みあったり、もらい泣きするなどの形で相手のこころが伝わってくることです。
共鳴では相手のこころの揺れが伝わってきて、自分の心もそれに共振して揺れることを言います。
しかし、相手の心の揺れにそのままピッタリと波長を合わせて共振するだけではいけません。
なぜなら、怪我をして大泣きしている子供がいたとしてその子供の心の揺れに合わせてしまうと、その子供の不安や主観的な痛みを増幅させてしまうだけだからです。
そうではなく、一旦その驚きを受け入れながらも余裕を持って適切な関わり方、適切な処置へと誘導しなければなりません。単に共振したり、共に揺れているだけではいけません。
ではその余裕はどこからできるのか。
それは、多くの人と関わってきた経験や、今まで学んできた知識、あるいは傷は癒えていく、という信頼感や希望からかもしれません。
いわゆる、「今ここ」で起きたことに対して共揺れするのではなく、「今ここ」ではない経験や記憶などが結びつくことで余裕が生まれてくるのです。
これこそが「共感」と呼ばれる事態です。
理解するということとは
理解することは、「共感」出来るために必要なことであり、理解なしには「共感」することはできないと私は思っております。
理解できたと思い込むことはダメなのか
理解することと、理解できたと思い込むことに関してどちらが良いかと聞かれると理解することですが、そもそも異なる人間同士、完璧に理解し合えるということはないと思います。
かといって、本当は理解できていないのではないかという疑念を持ち続けては不安が生じ、共感はできないはずです。
理解できたかどうかということは、客観的には証明できず、理解できた、理解してもらった、という主観的感覚であることが言えます。
なので大切なのは、「理解できていなかった」ところから「理解できた(と思う)」ことへ移行することが重要なのです。そこには2人の関係性が変わった、認識が変わったという動きが大切です。
なので、理解できたと思いこむことよりも本当に理解できているのだろうかと常に真摯な希望として持ち続けることが大事です。
理解から洞察へ
理解すると言ってもさまざまな層があります。
身体の痛みが伝わってきて、こちらも苦しくなってしまうような理解もあれば、「うんうんわかる自分も」という理解もあるかもしれません。
○○という概念の当てはめれば・・・、〇〇の実験結果からすれば・・・という理解もまた存在します。
これらの理解は確かに必要ですが、カウンセリング等における理解とは違います。
精神分析家のビオンは「記憶なく、欲望なく、理解なく」ということを挙げています。
「記憶なく」というのは今までの記憶から学習した知識を目の前にいる相手に対して辻褄合わせをしてはならないという戒めです。
「欲望なく」というのは、目の前にいる人に対してこうあって欲しい、このようになって欲しい、という主観的な願望を戒めるものです。
「理解なく」はこちらが持っている概念的な枠組みに性急に相手を当てはめてしまおうとすることに対しての戒めです。
これらの態度は決して「わかりたい・理解したい・知りたい」という考えを放棄したわけではないです。
全身全霊でコミットしつつ、禁欲的であり、まさに今目の前にいる相手に対して、2人の間で生起しつつあることに対して開かれておくことで直感的な「洞察」が得られるということなのです。
まとめ(共感と理解について)
ここまでたくさん説明してきましたが、若干難しく感じたかもしれません。
ですがそれで良いのです。それを理解したつもりになるのではなく、今ので理解できたのかという疑問を持つことで、自分の中に新しい経験や知識が身につきそれが人間関係でも活躍します。
共感することと理解することについてお話ししましたがいかがだったでしょうか。
今まで共感したつもりや、理解したつもりになって本当に目の前にいる人に対して共感できていなかったのかもしれません。偽りの共感が人を逆に傷つけることもあります。
これから人と関わりを持つときは「共感と理解」について深く考えながら行動や発言をすることで、良い人間関係が築けるのではないでしょうか。